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大阪商業史に関する回答

1 三郷総年寄の経済活動について by 金谷 2010 10/12(Tue)
三郷総年寄の経済活動について個人的に調べております。
一例として、大阪市史などによれば惣年寄は共有で上荷船・茶船を所有していたそうですが、お尋ねしたいのは、
①川船所有の目的(私の推測は総会所の経費捻出ですが)
②運用形態。具体的には特定の客先(確実な得意先)があったと考えてよいのでしょうか。それとも川船をどこかの業者に賃貸していただけでしょうか。です。
③また、天保の改革における株仲間の解散令発布と(川船による)商品流通への具体的影響にも興味があります。惣年寄の「川船営業」にも影響がなかったはずはないと考えますがいかがでしょうか。
④そもそも本来的に、総年寄がどの程度市中の商業活動にかかわっていたのか。

何か研究結果(論稿)のようなものがこれまでにあればお教えいただきたく、よろしくお願いします。

お返事が遅くなり、本当に申し訳ありません。ご質問の内容が、研究蓄積の薄い部分であり、私どももお返事に苦慮しておりました。
まず、④の惣年寄がどの程度市中の商業活動にかかわったかという点ですが、上記のとおりあまりそういった観点からの研究成果は見当たりません。『大阪市史』をご覧になったということで、ご存知のことと思いますが、その職責に三郷酒造米の調査や諸仲間の人別調査、諸相場の調査、江戸積十一品の員数書の検査など商業活動の取り締まりに関する役儀がありますが、これは惣年寄自身の経済活動というよりも、公的な行政職と考えられます。幸田成友『日本経済史研究』(大岡山書店、昭和3年)によりますと、そもそも惣年寄は松平忠明の時代は元締衆と称し、当時最も多くの財産を所有し、人望の厚かった町人を選んで命じたということで、元禄4年(1691)の西町奉行所加藤大和守泰堅の言葉に「今後は与力衆に続く御役人と存じ、御用を入念に勤めるように」とあるように、行政職と見なされました。
しかし、その出自を見れば、和泉や紀伊や大和などの武士や土豪が多く、蓄財を背景に惣年寄として取り立てられ、変転もありましたが世襲を基本として、大阪町人の代表としての格式が培われたものと考えられます。また、実質的にも名誉職で給料はなく、表向きの役得としては、幕府から役(税金)が免除されただけでした。しかし、その職責は繁多で重責であり(「三郷惣年寄由緒書并勤書」には将軍以下在阪中の町方御用・御触口達の伝達など合計41カ条にわたる職務が記載されている)、町人といっても商業経営との併業は困難で、商売をやめて不動産収入に頼る惣年寄も多くなりました(『新修大阪市史 第3巻』P.258)。
こういった状況ですから、その職責に対する得分が必要になります。まず、年始・八朔・歳暮には郷中の各町から、そして年始・八朔には諸仲間からの祝儀銀を受けましたが、それ以外に、幕府は延宝元年(1673)11月に、三郷惣年寄に対して大阪の繁栄による需要に応えるために、売買譲渡の禁止を条件に、上荷船300艘・茶船200艘の建造を許可しました。これら新造の上荷船・茶船は、大阪から江戸へ上納する幕府領の御城米2万石の回送の義務を負いましたが、それ以外ではこれらの船を業者に貸し付けて利益を得ることができました。天明3年「上荷船茶船仲間取締歎之御願書控」にはこれらの新船五百艘は組頭は無く、船惣代2人が運用を行ったとしています。つまり、この場合、三郷惣年寄全体が一つの船仲間と考えられます。これらが給料にかわる惣年寄の職責の代償となったわけです。ですから、②のご質問の回答としては、この新造上荷船・茶船は業者へ貸し付けたと言えます。これは前掲の幸田成友『日本経済史研究』(大岡山書店、昭和3年)に記載されておりますが、残念ながら、それ以上の詳細はわかりません。
こういったことが①のご質問にある惣年寄の上荷船・茶船所有の目的になると思いますが、惣会所の経費については、地所は幕府から与えられ、運営費用は各町の公役として賦課されました。町人が負担する公役はその徴収の方法によって役掛銀・石掛銀の2種に分かれ、前者は家屋に関する負担で、後者は土地に関する負担でした。その中に「支配打銀」という税種があり、惣会所の経費はこの中に含まれます。「打」は賦課するという意味で、「支配打銀」は石高に応じて賦課される石掛銀でした。ですから基本的には上荷船・茶船の貸付利益は惣年寄中で分配したと考えられます。最後に、株仲間解散の川船営業への影響に関してですが、天保の改革によって冥加銀が免除となったかわりに、従来の5組117浜の営業権益は廃止され、艘数や働場、船惣代・筆頭・組頭等の制度もなくなり、一切が惣年寄の直接支配となって、役船の運上銀も半減されるなど少なからぬ改革が行われました。しかし、川船輸送は円滑にならず、表層的改革に終わりました。そして独占的権益の撤廃後も、実質的には依然として従来の情勢が継続していたようです(黒羽兵治郎『大阪地方の船仲間』)。
ご期待に沿うものではないと思いますが、以上、お返事をいたします。〔池田治司〕