―大阪の町―
この資料室では、江戸時代の庶民生活の場としての大阪の町を解説しています。
安政 2 年(1855)に江戸から赴任した大阪西町奉行久須美祐雋(くすみすけよし)は、その随筆「浪花の風」冒頭に、「浪花の地は日本国中船路の枢要にして財物輻輳の地なり。故に世俗の諺にも、大坂は日本国中の賄所とも云、又は台所なりともいへり。実に其地巨商富估軒を並べ、諸国の商船常に碇泊し、両川口よりして市中縦横に通船の川路ありて、米穀を始め日用の品はいふに及ばず、異国舶来の品に至る迄、直ちに寄場と通商なる故、何一つ
欠るものなし」と当時の大阪の経済的繁栄を記しています。
100 万都市江戸は人口の半分が武士であったといわれますが、それに対し大阪は幕府直轄地で 30 万~40 万の人
口を擁し、その大半は町人(商人・職人)でした。また、市中の行政は実質的に大阪三郷といわれる自治組織の取
り仕切るところでした。大阪が町人の都といわれるゆえんです。
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―商都大阪―
「天下の台所」とうたわれた大阪の経済的繁栄を支えたのは、両替商を中心とする商人の財力でした。
江戸時代には幕藩体制(ばくはんたいせい)のもと、幕府や大名は年貢米や特産物を江戸や大阪で販売し貨幣収入を得ていました。そのような貨幣経済の浸透や水運の発達が経済圏の飛躍的拡大を促し、諸藩の蔵屋敷(くらやしき)を拠点に大阪は全国経済の中心地として栄えました。「諸色直段相場の元方(しょしきねだんそうばのもと
かた)」などと称されたのもこのためです。
大阪には江戸時代最大の商品である米をはじめ、油や綿などの投機市場が置かれ、その相場は全国的な影響力を持ちました。水の都として物流の利便性に富み、それを強みに町人が才覚を発揮して商都大阪を下支えしたわけです。また、各藩の領主は大阪の豪商に借金を依頼しました。いわゆる大名貸(だいみょうがし)によって、大阪は
全国経済に影響力を及ぼしたといえます。 |
―大阪のくらし―
大阪では商人の財力を背景に、様々な文化、風俗や娯楽が発達しました。
江戸にくらべて町人の割合が圧倒的に多かった大阪は、市政においても惣年寄(そうとしより)、町年寄(まち
どしより)などの町役人が町奉行所の施策を引き受け、町人の経済的な台頭がそのまま高い自治意識にも反映して
いました。
大阪の町人は幼年より読み書きそろばんの基礎的な素養を培い、長じては身分を超えた文化的な交流にも引け
をとらない教養を身につけた豪商もありました。木村蒹葭堂(きむらけんかどう)、富永仲基(とみながなかもと)、
山片蟠桃(やまがたばんとう)、草間直方(くさまなおかた)などの多くの町人学者を生み出したことからもその
ことがうかがえます。
経済的台頭の一方でその蓄財を文化的なたしなみや交際に費やし、それを商機にも転換しながら採算を合わせるという大阪町人独特の気質が育まれていったのです。
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商業史博物館の企画展示を開催するほか、学内他機関や関連団体の利用も視野に入れた公共的な展示空間として利用しています。
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