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江戸時代以前の将棋 1

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1.出土駒

日本における将棋の起源は、資料によって11世紀前半まで遡ることができる。将棋は当時貴族や僧侶を中心に愛好されたが、時代が下ると、戦陣を象る技芸として戦国武将に受け入れられていく。そういった経緯を出土駒や文献記録をもとに概観する。

 今回の展示会では、4ヶ所の遺跡の出土駒(興福寺旧境内出土駒・酒田市城輪柵跡出土駒・一乗谷朝倉氏遺跡出土駒・大坂城跡出土将棋駒)を紹介した。それらの特徴を詳記することにする。

 ①興福寺旧境内出土駒
  『奈良県遺跡調査概報(第1冊分)1992年』によると、奈良県文化会館改築工事にともなう1993年3月の調査で、井戸状遺構から将棋駒15点(玉将3、金将4、銀将1、桂馬1、歩兵5、不明1)が見つかった。同時に見つかった習書木簡には「酔像」の文字がある。また、天喜6年(1058)7月26日の銘がある木簡も同じ土層から出土し、出土駒としては現在最古のものと言える。
  調査地は、奈良時代には興福寺北面築地塀のすぐ内側にあたる場所で、条坊では左京三条七坊七坪の東北隅に位置し、江戸時代には興福寺の子院である吉祥院の敷地であった。この井戸状遺構には通常の石組、木組が見られず、現在では水が涌かないことから、井戸の掘削を途中で中止してゴミ捨て穴として転用した可能性がある。
  年号銘のある木簡は題箋軸と見られ、裏面には「梨原御房」の文字がある。これは春日祭使の宿所とされた内蔵寮領の梨原庄の宿舎を指すと思われ、調査地の西北に内侍(なし)原(はら)町の地名が残る。
  出土駒の特徴として、「玉将」はあるが「王将」はないこと、裏面に「金」あるいは「金也」と墨書した「歩兵」「銀将」の駒があり成り駒ルールの存在が確認できること、「歩兵」の文字に駒型の枠取りをした習書木簡が出土し、当時の駒の製法を暗示すること、「酔像」の文字がある習書木簡が出土しており、11世紀半ばに酔象駒を含む将棋が成立していた可能性を示すことなどがあげられる。

 ②酒田市城輪柵跡出土駒


酒田市教育委員会『史跡城輪柵跡』より

  庄内地区のパイプ潅排水を主とした圃場整備工事にともなう1979年度の調査で、土坑から「兵」の駒1枚が出土した。当初、城輪柵が平安時代の出羽国府跡と位置づけられていることや、赤焼き土器片を伴うことから、所属時期は平安時代に遡ると推定されたが、その後の発掘調査によって、酒田市立資料館では、将棋駒が出土した土坑は埋め土の類型から中世に下るものと推定している。

 ③一乗谷朝倉氏遺跡出土駒


〔福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館蔵〕

  この遺跡は、戦国時代の越前朝倉氏の居城跡である。朝倉氏は1573年に織田信長によって滅ぼされるまで、百数十年間にわたってこの地域を治め、高い文化水準を誇った戦国大名である。将棋駒は1973年の第9次調査で出土したもので、1976年の調査報告書によると、その数は174枚にのぼる。判読可能な140枚の駒の内訳は、玉将2、王将4、酔象1、飛車6、角行12、金将10、銀将11、桂馬15、香車16、歩兵62、その他1である。永禄年間の出土物と推定されるこれらの駒に彫り駒や酔象駒が含まれているのは画期的な意味を含んでいる。
  出土駒数の多さで知られるが、改めて具体的な駒の特徴を記しておく。
  材質はほとんどが檜材で、厚さは0.2㎝前後と非常に薄く、上下の厚さもほぼ均等であることから、素人がヘギ板を使って作った駒と考えられる。大きさは不揃いであるが全体的に現在のものよりも大きく、下部幅3.9㎝の「飛車」などが見られる。将棋盤の出土がなかったので、正確なことはわからないが、盤面は少なくとも37×35㎝以上と推定できる。文字のほとんどは楷書体で、13点のみが草書体が使われている。彫り駒は江戸時代末期頃に成立したと考えられていたが、この出土資料はその説を覆す発見となった。また、駒隅に墨線をほどこして駒の進行方向を示したものがあり、素人風味を表している。朝倉氏遺跡の駒には王将と玉将が出土し、この時期には両方が使われていたことがわかる。酔象駒については、他の中将棋の駒が出土していないことから、古式の小将棋の駒と推定される。文献上では元禄9年の「諸将棋図式」に天文年中に後奈良帝が酔象を除かせて小将棋を作ったことが記されていたが、その証拠となる発見となった。その他「歩兵」の成り面に「登」の崩字の「と」と見られる駒があり、「と金」の成立が認められる。他に、裏面にも同字を墨書した「王将」や「金将」の存在や通常の駒形を呈していない駒なども見受けられる。

 ④大坂城跡出土駒
  発掘調査は府庁舎建替えによる庁舎周辺整備事業に伴うもので、平成2年度から6年間にわたって行われた。出品した出土駒のほとんどは、豊臣大坂城築造以降、三の丸築造(1598年開始)以前と推定される井戸の遺構から平成3年度の調査で発見されたものである。
  形は底辺の広い5角形で、厚みは駒先が薄く、駒尻が厚い。文字は漆で書かれ、香車以外は駒先に詰めて駒尻に余白がある。これはつまみしろをとった配慮と思われる。
  出品資料を含めて大坂城下町の発掘で発見された出土駒は、南秀雄「出土駒から見た将棋の愛好者―大坂の発掘例―」(『月刊考古学ジャーナル』№428,1998年)によると12地点23枚におよぶ。南秀雄氏によると、その出土範囲は大坂城周辺から船場にかけてまんべんなくおよび、近世の大阪では広い階層の人々に将棋が普及していた姿を示しており、出土駒に個体差がなく駒先と駒尻の厚さが異なる漆書きの駒であることは、専門職人により生産され、広い流通圏・安定的な需要にのっとった商品となっていたことを表す。地域的な違いもあるが、20~30年前のものと推定される朝倉氏遺跡出土駒が素人がヘギ板を使って作った駒であり、形態も多様であったことと比べると、将棋愛好者の増加がわかるという。また、大坂城下町の発掘で発見された出土駒には中将棋の駒がないのも特徴で、小将棋の普及のほどがうかがえる。