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江戸時代の将棋 2

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2.将棋三家

 こうして将棋の上手として知られた初代宗桂は、公家邸や寺社に招かれ、腕前を披露した。家康や秀忠にも召し出され、慶長17年(1612)には俸禄を与えられる。『大日本史料』に残るこの時の記録は次のとおりである。
   慶長十七壬子、従権現様被下置候御切米御書出シ之写
       碁所衆、将棋指衆 御扶持方給候事
   一、五十石五人扶持   本因坊
   一、同段        利賢
   一、同段        宗桂
   一、五十石       道碩
   一、弐拾石       春知
   一、弐拾石       仙重
   一、三十石       六蔵
   一、弐拾石       算碩
     御切米合弐百九十石
      御扶持方 イニ合 拾五人扶持
   右、亥年分より、毎年京升を以相渡、彼衆手形を取置、江戸御勘定
   に可被相立候、以上、
      壬子二月十三日
 この資料に示されるとおり、「碁所衆」として本因坊算砂も50石5人扶持が与えられている。この本因坊は将棋にも長じ、宗桂と並ぶ上手であった。
 「當代記」によると、「慶長12年(1607)に京都の将棋指しらが、駿府や江戸へ下り、その下ったものの中でも上手なのは宗桂というものである、これは、京都の町人である、このものより角行落ちの指し手に春知や観乗坊宗古(これは宗桂の子供)などがいた」と記されてある。さらに、続けて「翌13年に将軍が江戸滞在中の本因坊の将棋の実力を見ようと、京都から宗桂を召し出して10日で10番指させたところ、将棋の実力は互角であった」と記されている。
 これを裏付けるように、「駿府政事録」には「慶長17年3月3日、在府の武士たちが出仕し、その前で本因坊算砂と宗桂法師が将棋を指したところ、宗桂が勝った云々、23日将軍家(徳川秀忠)の御前で本因坊算砂と宗桂法師が将棋を指したところ、算砂が勝った云々」ということが書かれている。
 初代宗桂没(寛永11年)後、長子の宗古が大橋家の跡目を継ぎ、減額されたが俸禄は継続支給となる。この俸禄は家に付与されたもので、永続的な趣旨を持っていた。宗古は二歩の禁止や千日手の規定など将棋のルールを整備した。こうして将棋は幕府公認の技芸として認められ、将棋家も世襲されていくことになる。その後、宗古は本家を、次子の宗与は分家を興し、宗古の娘婿の伊藤宗看が伊藤家を興した。幕府はこの三家に俸禄を付与し、以後代々この三家のいずれかから最も棋力の秀でた者を選び名人とした。
 寛文10年(1670)には江戸に領地が与えられ、寺社奉行の管轄下に置かれる御用達町人の身分が与えられる。そのかわり、毎年4月の御目(おめ)見(み)えから12月の御暇(おいとま)までの在宅勤務が定められ、徳川家の冠婚葬祭には登城参列すべきことや毎年11月ごろ(後11月17日に定められた)には江戸城内の黒書院の間で将軍に技芸を披露することが義務付けられる。しかし、この御城将棋は将軍が実際に観戦することはまれで、老中のひとりが代行していた。初期には時間制限なしの対局であったので、城中では勝負がつかないこともあった。このため、元禄5年(1692)から対局時間を短縮するため、事前に対局を済ませ、御城将棋の当日は盤上に駒を並べなおすだけの所作となった。
  「将棋雑編」に載る将棋三家の家系は以下のとおり。
  将棋家三家系
  〔宗桂家〕
  ★宗桂 前名は宗慶、九段、慶長年中に召し出され、寛永11年(1634)に死亡。
  ★宗古 九段、寛永11年に家督を相続し、承応3年(1654)に死亡。
   宗桂 万治3年(1660)9月25日死亡、墓碑による。
   宗傳 寛文3年(1663)5月15日死亡、同上。
  ★宗桂 前名は伊藤宗銀、九段、明暦2年(1656)家筋を再興し、正徳3年(1713)死亡。
   宗銀 養子、宝永6年(1709)、正徳3年8月に家督を継ぐ、同月死亡、20歳。
   宗桂 養子、66歳、正徳3年に相続する。享保9年(1724)に出仕する、宝暦3年(1753)に死亡。
   宗桂 養子、伊藤宗印3男、前名は宗寿で61歳、八段、享保9年養子に入り、同年家督を継ぐ、安永3年(1774)8月死亡。
  ★宗桂 前名は印寿、九段、寛政3年(1791)8月死亡(?)、56歳、明和元年(1764)11月27日五段、同3年(1766)7月16日六段。
   宗桂 前名は宗銀、七段、享(明カ)和3年12月1日六段、44歳、寛(文カ)政元年6月死亡。
   宗桂 前名は宗金、文政5年(1822)4月19日宗桂と改名、八段、明治7年(1874)5月死亡、天保3年(1832)12月23日七段。
   宗金 嘉永6年(1853)正月16日部屋住、10口を賜う。
  〔宗与家〕
   宗与 宗有とも称し、慶安元年(1648)死亡。
   道仙 慶安元年家督相続、万治3年(1660)死亡。
  ★宗与 九段、万治3年12歳にして家督相続、享保13年(1728)死亡。
   宗与 前名は宗民、八段、享保13年家督相続、明和元年(1764)8月10日死亡。
   宗順 前名は中村宗順、七段、明和2年(1765)5月14日に新規に召し出される、明和3年(1766)7月16日五段、同7年(1770)12月1日六段、寛政4年(1792)10月21日死亡。
  ★宗英 前名は七之助、安永2年(1773)改名、九段。
   宗與 前名は英長、七段でも弱かった、天保3年12月23日七段。
   宗みん 前名はりょう英、七段でも強かった、文化14年(1817)生まれ。
    りょう英 宗みんの子、部屋住まいで死亡、文久午(?)。
   宗与 前名は勝田仙吉、桂仙と改名し、文久2年に家督を相続する。七段でも弱かった、明治14年(1881)11月死亡。
    英俊 前名は中村英□、7代宗与の養子、後に病気を患って引退、柳雪と改名、七段、後に宗英と改名、文政元年(1818)養子となる。同年部屋住まい10口を賜う、文政13年(1830)に廃嫡届、天保10年(1839)死亡。
  〔伊藤家〕
  ★宗看 九段、寛永12年(1635)召し出される、元禄4年(1691)出仕する、同7年(1694)に死亡。
  ★宗印 九段、前名は鶴田幻庵、元禄3年(1690)養子となる、天(享カ)保4年(1719)家督を相続する、享保8年(1723)死亡。
    印達 五段、正徳2年(1712)9月に15歳で死亡。
  ★宗看 九段、2男、前名は印寿、享保8年家督相続、宝暦11年(1761)死亡。
    看恕 4男、前名は助左衛門、七段、宝暦10年(1760)7月死亡、45歳。
    看寿 5男、八段、贈名人、宝暦10年8月死亡、子供の看寿は後寿三と改名、寛政4年(1792)6月死亡。
   得寿 五段、24歳で死亡、宝暦11年(1761)家督相続、同13年(1763)死亡。
   宗印 養子、前名は鳥飼忠七、七段、宝暦13年家督相続、寛政元年(1789)出仕する。同5年(1793)死亡、66歳。
  ★宗看 養子、前名は松田印嘉、九段、天明4年(1784)養子に入る、寛政元年家督を相続する、天保15年(1844)死亡。
    看理 嫡子、文政7年(1824)4月死亡、31歳。
    看佐 七段でも強かった、前名は定次郎、次男である、文政7年10月6日七段披露目、文政10年(1827)2月死亡。
    金五郎 六段、天保14年(1843)3月死亡、天保8年11月8日六段披露目。
   宗寿 養子、2代看寿の子供、七段、天保15年(1844)家督相続、弘化3年(1846)死亡。
  ★宗印 前名は印寿、実名政良、九段、弘化3年家督相続。
    印嘉 嫡子、文久2年16歳にて死亡、初段。
  ※上記内容は原典に忠実に現代文にしたもの。★印が名人。★印、西暦併記、年号誤記の推定、原典の記載内容に矛盾がある部分の「(?)」は、筆者の注記。また、一部の名前にWEBサイトで表示できない漢字があり、やむをえず平仮名で表記した。
 これを見ると技芸を高めるために、必ずしも嫡子に家を継がせず、将棋の強い次子や養子に家を継がせる場合も多かったことがうかがえる。