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将棋駒の鑑賞法 1

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将棋駒の鑑賞法

将棋駒がいつごろから現在の形状になったかは不明であるが、興福寺旧境内出土駒や酒田市城輪柵跡出土駒の資料、平安時代の書道家である藤原行成の著した「麒麟抄」に、駒文字を書くための心得が書かれていることから、平安時代には五角形の木片に文字を記した駒があったことがわかる。鎌倉・室町期に製作されたと推測される駒も、鶴岡八幡宮、一乗谷朝倉氏遺跡などから出土している。
 戦国武将に、将棋が愛好されていたといわれるが、その証拠のひとつを水無瀬神宮に伝わる安土桃山時代に記された駒の制作記録である「将棊馬日記」から読み取ることができる。この中には、豊臣・毛利・徳川などの有力大名に水無瀬家が駒を献上したという記述が見られる。水無瀬家は当時、駒の製作にたずさわっており、現在でも使われる水無瀬という書体のルーツになっている。
 江戸時代には、将棋・囲碁・双六の三面が大名家の嫁入り道具に不可欠なものとなる。各地に嫁入り道具の将棋盤が残されており、宇和島の伊達博物館等各地で保存されている。江戸時代の後期の駒には花押や銘の入った駒(清安・金竜等)が見受けられる。これは号を持つ駒師が出てきたということを意味する。江戸時代末期には、現在将棋駒の生産で有名な天童で将棋駒の製作がはじまったといわれている。当時、財政難であった天童藩の要職についていた吉田大八は、下級武士に対する救済策の一つとして、藩士が将棋駒を製作することを取り入れた。「将棋は兵法戦術 に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」とし、将棋駒作りを広く奨励したことが将棋駒の産地になった由来といわれている。今でも天童市は、将棋駒の生産量が全国シェアの90%以上を占めている。
 大正・昭和期に入ると将棋駒は、高級なものは美術品と呼ぶことのできるような洗練されたものに発展していった。また、簡易な製作方法で作られたものが大量生産できるようにもなった。戦時中は慰問のための将棋駒も多数製作している。また戦後になると、高級品である盛り上げ駒も製作するようになる。
 傾斜のついた五角形のツゲに、漆で文字を書いた将棋駒は、美術品と呼ぶことのできる趣がある。駒の書体・駒の種類・木地のあでやかさなど、さまざまな角度から見て楽しむことがでる。他の国の将棋には決して見ることのできない特徴を持つ駒は、日本の木の文化を象徴しているように思える。
 それでは展示品のひとつである、熊澤良尊作・巻菱湖書孔雀杢盛上駒を例に、Ⅰ駒の書体、Ⅱ駒の種類、Ⅲ駒の木地の3つのポイントを中心に鑑賞していこう。