江戸時代以前の将棋 2
2.文献記録
上記出土駒の記録を補う観点からいくつかの文献記録について解説する。
①「麒麟抄」
平安時代の能書家である三蹟のうちの一人、藤原行成が書いたとされる書道に関する本のひとつで、将棋の駒の書き方を記した部分がある。その内容には、成り駒(裏面)の金の字を草書で書くという書法が記されており、藤原行成は1027年に56才で没しているので、興福寺旧境内出土駒にも示される成り駒ルールが11世紀初めにはすでにあったことを裏付ける資料である。同様に藤原明衡の書で康平年間(1058~1064)に成立したとされる「新猿楽記」には将棋のことが技芸のひとつとして語られている。同時代の貴族階級での将棋の普及を表す資料である。
②「二中歴」
有職故実に関する類聚事典で、平安時代に作られた「掌中歴」と「懐中歴」の2書をもとに編纂されたもの。鎌倉末期の成立。
この書の「博棋 十三」には2種類の将棋が載る。俗に平安小将棋、平安大将棋と呼ばれるもので、その記述内容は次のとおり。ただし、資料中には「大将棋」の言葉は文中に出てくるが、「小将棋」については行き方が記されるのみである(『古事類苑 遊戯部三』吉川弘文館、昭和44年)。
(小将棋)
・ 玉将は八方自在に動ける。
・ 金将は下2目には行けない。
・ 銀将は左右と下には行けない。
・ 桂馬は前の角目を1目越える。
・ 香車は先方自在に行ける。
・ 歩兵は一方だけで他には行けない。
・ 敵陣の3目に入ると全て金に成る。
・ 敵の駒が玉一つになったら勝ちになる。
(大将棋)
・ 升目は13間
・ 玉将が各々一方にあり、金将がその脇にある。
・ 銀将は金の次にある。
・ 銀将の次には銅将があり、その次には鉄将があり、その次には香車がある。
・ 銅将は四隅に行けない。
・ 鉄将は後ろ三方に行けない。
・ 横行は王の頂にあり、前に一歩進め、左右は多少を問わず進める。
・ 猛虎は銀の頂にあり、四角に一歩進める。
・ 飛龍は桂馬の上にあり、四隅に行けて跳び越せる。
・ 奔車は香車の頂にあり前後に多少を問わず進める。
・ 注人は中心の歩兵の頂にあり、前後に進める。
興福寺旧境内出土の「酔像」の文字がある習書木簡の存在と、「諸将棋図式」に天文年中に後奈良帝が酔象を除かせて小将棋を作ったことが記されていたこととそれを証拠づける一条谷朝倉氏遺跡出土の酔象駒などとの関連性から考えると、「二中歴」に示される平安小将棋に「酔象」を加えた小将棋が平安時代に存在した可能性も考えられ、その後「飛車」「角行」を加えた42枚制の古式の小将棋が成立したと推測できる。他にも、宝永4年(1707)に刊行された「象戯綱目」の巻四には、小原大介作の「古風作物」と題した古式小将棋の詰め将棋が載り、図式中には酔象駒が含まれていて、「むかしハ今の小象戯に酔象をそえてさしたるとそ」という解説がそえてある。この42枚制の古式の小将棋では玉頭に酔象駒を配置する。
「象戯綱目」に載る「古風作物」〔館蔵〕
③「普通唱導集」
永仁5年(1297)~正安4年(1302)に、僧良季が編纂した。この書に平安大将棋より駒数の多い130枚、升目15×15の大将棋のことが記されている。一方だけで29種類65枚の駒があり、駒の動きや成り方を覚えるだけでも煩雑である。しかし、この新しい大将棋にいたって、初めて飛車・角行の駒が登場する。
④中将棋の記録
この煩雑すぎる大将棋にかわって登場したのが中将棋である。この将棋は大将棋から8種類の駒が除かれて駒数も92枚となるが、飛車・角行・酔象は引き継がれる。能書家三条西実隆の「実隆公記」には、駒書きの依頼に応じた記述が多く見られる。
増川宏一『将棋Ⅱ』(法政大学出版会、1985年)には、15・16世紀の文献中に表れる将棋の実施記録として、次のような統計が載る。
「康富記」(1401~1454)
中将棋2回、将棋15回
「言国卿記」(1474~1502)
将棋32回、少将棋2回
「実隆公記」(1474~1536)
中将棋4回、将棋214回
「言継卿記」(1527~1576)
中将棋82回、将棋108回、少将棋27回
「兼見卿記」(1570~1592)
中将棋1回、将棋56回、少将棋4回
「言経卿記」(1576~1606)
中将棋55回、将棋32回、少将棋19回
日記のため表記の峻別が明確でない可能性もあるが、山科言継・言経の場合は他者と比較して中将棋に興じた回数が多いことを増川氏は指摘している。
その他、16世紀には、中納言鷲尾隆康の「二水記」、神道家梵舜の「梵舜日記」などにも中将棋の記事が表れる。
⑤「象戯図」「将棊馬日記」
山科言継・言経の山科家とともに、16世紀に将棋と深い関係がある公家として知られるのは、水無瀬家である。この水無瀬家は本格的な将棋駒製作の元祖として有名で、現在でも将棋駒の書体銘としてその伝統が受け継がれている。文禄4年(1595)兼成82歳の時に正親町天皇の勅諚を拝して駒に揮毫したのが水無瀬駒の始まりと言われる。
「象戯図」は水無瀬駒を創始した水無瀬兼成が79歳の時に、曼珠院宮所蔵の「象経奥書」を借りて書き写したもの。この象戯図は、小象戯・中象戯・大象戯・大々象戯・摩訶大々象戯・立馬略頌・摩訶大々象戯口伝・大将棊(泰将棊)・大将棊略頌・終文及び署名落款で構成されている。「大将棊」以後は曼珠院宮所蔵の「象経奥書」にないので、兼成が追加したことがわかる。江戸期に様々な将棋図ができるが、この水無瀬兼成の象戯図に基づくものと思われる。
「将棊馬日記」は、天正18年(1590)から、慶長7年(1602)に至る13年間の水無瀬駒の注文・製作の詳細な記録である。日記の最終年が兼成の没年と一致していることなどから、兼成の駒製作の詳細を示すものと考えられる。注文者として「関白殿(豊臣秀次)」や「家康(徳川家康)」の名前が記される。この日記は昭和53年に駒師熊澤良尊氏の調査で発見された。徳川家康は水無瀬駒の最大のユーザーで、日記によると小将棋駒及び中将棋駒を含めて53組程度発注している。
⑥その他の文献
平安時代の記録としては、皇后宮権大夫を長くつとめた源師時の日記である「長秋記」に、大治4年(1129)に覆物の占いに将棋の駒12枚を使ったという記録が載り、左大臣藤原頼長の日記「台記」には康治元年(1142)の大将棋の記録がある。
鎌倉・室町期の将棋記録も同様に公家の日記類に残ることが多く、藤原定家の「名月記」、伏見宮貞成親王の「看聞御記」、甘露寺親長の「親長卿記」、中御門宣胤の「宣胤卿記」などがあげられる。このことから、古代・中世の将棋は貴族を中心とした遊びとして浸透していたといえる。
室町幕府の記録として知られる「花営三代記」応永31年(1424)の記録には、御前にて将棋を指し、奔王を出して勝ち、懸物として太刀をいただいたという記事が載る。このことから幕府内でも将棋が行われ、懸け物をしていたことがわかり興味深い。「奔王」の駒を使うことから、将棋は大将棋か、あるいは中将棋の可能性もある。
①「麒麟抄」
平安時代の能書家である三蹟のうちの一人、藤原行成が書いたとされる書道に関する本のひとつで、将棋の駒の書き方を記した部分がある。その内容には、成り駒(裏面)の金の字を草書で書くという書法が記されており、藤原行成は1027年に56才で没しているので、興福寺旧境内出土駒にも示される成り駒ルールが11世紀初めにはすでにあったことを裏付ける資料である。同様に藤原明衡の書で康平年間(1058~1064)に成立したとされる「新猿楽記」には将棋のことが技芸のひとつとして語られている。同時代の貴族階級での将棋の普及を表す資料である。
②「二中歴」
有職故実に関する類聚事典で、平安時代に作られた「掌中歴」と「懐中歴」の2書をもとに編纂されたもの。鎌倉末期の成立。
この書の「博棋 十三」には2種類の将棋が載る。俗に平安小将棋、平安大将棋と呼ばれるもので、その記述内容は次のとおり。ただし、資料中には「大将棋」の言葉は文中に出てくるが、「小将棋」については行き方が記されるのみである(『古事類苑 遊戯部三』吉川弘文館、昭和44年)。
(小将棋)
・ 玉将は八方自在に動ける。
・ 金将は下2目には行けない。
・ 銀将は左右と下には行けない。
・ 桂馬は前の角目を1目越える。
・ 香車は先方自在に行ける。
・ 歩兵は一方だけで他には行けない。
・ 敵陣の3目に入ると全て金に成る。
・ 敵の駒が玉一つになったら勝ちになる。
(大将棋)
・ 升目は13間
・ 玉将が各々一方にあり、金将がその脇にある。
・ 銀将は金の次にある。
・ 銀将の次には銅将があり、その次には鉄将があり、その次には香車がある。
・ 銅将は四隅に行けない。
・ 鉄将は後ろ三方に行けない。
・ 横行は王の頂にあり、前に一歩進め、左右は多少を問わず進める。
・ 猛虎は銀の頂にあり、四角に一歩進める。
・ 飛龍は桂馬の上にあり、四隅に行けて跳び越せる。
・ 奔車は香車の頂にあり前後に多少を問わず進める。
・ 注人は中心の歩兵の頂にあり、前後に進める。
興福寺旧境内出土の「酔像」の文字がある習書木簡の存在と、「諸将棋図式」に天文年中に後奈良帝が酔象を除かせて小将棋を作ったことが記されていたこととそれを証拠づける一条谷朝倉氏遺跡出土の酔象駒などとの関連性から考えると、「二中歴」に示される平安小将棋に「酔象」を加えた小将棋が平安時代に存在した可能性も考えられ、その後「飛車」「角行」を加えた42枚制の古式の小将棋が成立したと推測できる。他にも、宝永4年(1707)に刊行された「象戯綱目」の巻四には、小原大介作の「古風作物」と題した古式小将棋の詰め将棋が載り、図式中には酔象駒が含まれていて、「むかしハ今の小象戯に酔象をそえてさしたるとそ」という解説がそえてある。この42枚制の古式の小将棋では玉頭に酔象駒を配置する。
「象戯綱目」に載る「古風作物」〔館蔵〕
③「普通唱導集」
永仁5年(1297)~正安4年(1302)に、僧良季が編纂した。この書に平安大将棋より駒数の多い130枚、升目15×15の大将棋のことが記されている。一方だけで29種類65枚の駒があり、駒の動きや成り方を覚えるだけでも煩雑である。しかし、この新しい大将棋にいたって、初めて飛車・角行の駒が登場する。
④中将棋の記録
この煩雑すぎる大将棋にかわって登場したのが中将棋である。この将棋は大将棋から8種類の駒が除かれて駒数も92枚となるが、飛車・角行・酔象は引き継がれる。能書家三条西実隆の「実隆公記」には、駒書きの依頼に応じた記述が多く見られる。
増川宏一『将棋Ⅱ』(法政大学出版会、1985年)には、15・16世紀の文献中に表れる将棋の実施記録として、次のような統計が載る。
「康富記」(1401~1454)
中将棋2回、将棋15回
「言国卿記」(1474~1502)
将棋32回、少将棋2回
「実隆公記」(1474~1536)
中将棋4回、将棋214回
「言継卿記」(1527~1576)
中将棋82回、将棋108回、少将棋27回
「兼見卿記」(1570~1592)
中将棋1回、将棋56回、少将棋4回
「言経卿記」(1576~1606)
中将棋55回、将棋32回、少将棋19回
日記のため表記の峻別が明確でない可能性もあるが、山科言継・言経の場合は他者と比較して中将棋に興じた回数が多いことを増川氏は指摘している。
その他、16世紀には、中納言鷲尾隆康の「二水記」、神道家梵舜の「梵舜日記」などにも中将棋の記事が表れる。
⑤「象戯図」「将棊馬日記」
山科言継・言経の山科家とともに、16世紀に将棋と深い関係がある公家として知られるのは、水無瀬家である。この水無瀬家は本格的な将棋駒製作の元祖として有名で、現在でも将棋駒の書体銘としてその伝統が受け継がれている。文禄4年(1595)兼成82歳の時に正親町天皇の勅諚を拝して駒に揮毫したのが水無瀬駒の始まりと言われる。
「象戯図」は水無瀬駒を創始した水無瀬兼成が79歳の時に、曼珠院宮所蔵の「象経奥書」を借りて書き写したもの。この象戯図は、小象戯・中象戯・大象戯・大々象戯・摩訶大々象戯・立馬略頌・摩訶大々象戯口伝・大将棊(泰将棊)・大将棊略頌・終文及び署名落款で構成されている。「大将棊」以後は曼珠院宮所蔵の「象経奥書」にないので、兼成が追加したことがわかる。江戸期に様々な将棋図ができるが、この水無瀬兼成の象戯図に基づくものと思われる。
「将棊馬日記」は、天正18年(1590)から、慶長7年(1602)に至る13年間の水無瀬駒の注文・製作の詳細な記録である。日記の最終年が兼成の没年と一致していることなどから、兼成の駒製作の詳細を示すものと考えられる。注文者として「関白殿(豊臣秀次)」や「家康(徳川家康)」の名前が記される。この日記は昭和53年に駒師熊澤良尊氏の調査で発見された。徳川家康は水無瀬駒の最大のユーザーで、日記によると小将棋駒及び中将棋駒を含めて53組程度発注している。
⑥その他の文献
平安時代の記録としては、皇后宮権大夫を長くつとめた源師時の日記である「長秋記」に、大治4年(1129)に覆物の占いに将棋の駒12枚を使ったという記録が載り、左大臣藤原頼長の日記「台記」には康治元年(1142)の大将棋の記録がある。
鎌倉・室町期の将棋記録も同様に公家の日記類に残ることが多く、藤原定家の「名月記」、伏見宮貞成親王の「看聞御記」、甘露寺親長の「親長卿記」、中御門宣胤の「宣胤卿記」などがあげられる。このことから、古代・中世の将棋は貴族を中心とした遊びとして浸透していたといえる。
室町幕府の記録として知られる「花営三代記」応永31年(1424)の記録には、御前にて将棋を指し、奔王を出して勝ち、懸物として太刀をいただいたという記事が載る。このことから幕府内でも将棋が行われ、懸け物をしていたことがわかり興味深い。「奔王」の駒を使うことから、将棋は大将棋か、あるいは中将棋の可能性もある。