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将棋の風俗史 3

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3.縁台将棋

 縁台将棋という言葉を聞くと、懐かしさで一杯である。現在行われている将棋は、IT将棋が中心となり、各自が楽しんでいる。IT将棋の良いところは、駒を並べる必要がない。棋力に応じて対局できる。コンピューター相手に気軽に対戦できる。旅行でも行かない限りは、将棋盤に向かって駒を並べることもない。将棋の会所に行けばよいが、棋力の差があり、対戦者に苦慮することになる。縁台将棋は死語になっている。縁台将棋が盛んな頃は、文字通り縁台に跨って、将棋盤を置き、指していた。
 縁台に二つ折れの将棋盤や、一枚ものの将棋盤を置き、夕涼みを兼ねて薄暮のひと時を過ごしていた。究極の将棋盤は、縁台に升目を彫り、その中に墨汁を流し込んでいた。いかにも大阪人らしい発想である。
 縁台将棋が行われていた背景には、いくつかの条件があった。大阪には路地があり、隣近所との付き合いがある。この付き合いとは、旅行に行ったり故郷に帰省した場合、土産を近隣に配ったり、季節の行事に合わせて、柏餅やお汁粉を作ったり、誕生日にお寿司を作り、お祝い事に赤飯を炊き上げた場合に、懇意にしている近所に配る。またみかん狩りや魚釣りでも収穫があれば、やはり配る。以上の縁で、近隣の将棋好きの人達と縁台に跨ることになる。
 家庭で本将棋を楽しむ場合、安い将棋を買うと、いかにも安っぽい駒は、不揃いな形に文字が印刷されている。木製の将棋盤ではなく、紙製である。使用する時には、折り目を伸ばしても、安っぽい駒は紙の上で浮いている。それなら紙製のサイズに合わせた菓子箱の裏に糊で貼ったり、ダンボールやベニヤ板に貼り合わせた。古人からの知恵である。
 現在では、クーラーもあり、一人でも将棋を楽しめる時代になったから、表に出て、縁台将棋もないだろう。平成に入り縁台将棋という風物詩も消失してしまう運命にある。


「玉将」と「王将」について
  出土駒の項目でも少し触れたが、天喜6年(1058)7月26日の銘がある木簡が共伴する興福寺旧境内の遺構では「王将」駒は出土していない。しかし、少し時代が下がる大阪府四條畷市の上清滝遺跡からは寿永3年(1184)銘の木簡とともに、既に「王将」駒が出土している。
  「玉将」と「王将」について、『古事類苑 遊戯部三』に載る「棋子」関係の資料を見ると、次のようなものがある。
 ①「壒嚢抄 二」
  将棋の馬で玉を王と言うのはなぜか。王が両立するのを忌みて、必ず一方を玉と書く。この筆跡は一家口伝という、云々
 ②「半日閑話 三」
  王将に点を打つことについて、王は二人いないので一つの王には点を打つという。
 ③「萩原随筆」
  王の字に点を打つことは、国に2人の君主はいないという意味である。また、2人の王が両立することを忌みて一方に点を打つとも言う。ある説では、禁中では両方に玉を用いる。王を攻めるということを忌むためである。
 ④「善庵随筆 一」
  私(朝川鼎)が先年大橋宗桂の求めに応じて、その将棋の著書に序を書くことになった。王将という駒はなんとも疑わしい名前である。王ならば王、将ならば将というべきで、王と将は混用するべきではない。将棋の諸書を考証すると、開祖宗桂から4代目宗桂まで代々著述するところの将棋図式に、双方とも玉将があり、王将の名前がない。このことから考えるに、玉を大将として、金銀を副将とするべきである。そうすれば、金将・銀将の名前も意味があって、一入面白く思う。考えるに5代目宗桂以後双方とも同じであると紛らわしいので、一方は点を省き、差別を付けたのであろうと今の宗桂に語ったところ、宗桂はいわく、それはきっとそうでしょう。その訳は。毎年11月17日に吉例でお城にて将棋を仰せ付けられ、その棋譜を上呈するのに、双方とも玉将とするのが先例であるが、王将とは言わぬことを家に申しつたえ、代々玉将と書き上げているが、その理由を知らなかった。これで明白になったとついにかつてのその書に将棋明玉と名付けて上梓し、その序を私が巻首に載せた。

  これら4つの資料からは、次のことが窺える
  ア.王が両立することを畏怖して、一方を玉と書いた。
  イ.宮中では両方に玉を用いるという説がある。これは王を攻めるということを忌むためである。