江戸時代の将棋 4
4.全国への普及
享保2年(1717)刊行の『将棊図彙考鑑』は、最初の全国有段者名簿であり、合計167名の有段者が以下のとおり記される。
七段3名、六段1名、五段4名、四段17名、三段22名、二段30名、初段90名
また、宝永4年(1707)刊行の「象戯綱目 巻一」には全国の将棋上手およそ50人を次のように載せている。
「象戯綱目」に載る将棋上手〔当館蔵〕
(往世)以下はむかしの人を集めた。
象戯家5人 元祖大橋宗桂 二代大橋宗古 三代大橋宗桂 四代伊藤宗看 故大橋宗與
京都6人 廣庭中書 腕前は香車落ち、檜垣是安(市兵衛こと) 腕前は香車落ち、石井承意(泉屋善兵衛こと) 腕前はわからず、丹下圖書 腕前はわからず、田代市左衛門 腕前は片馬、御簾屋七郎右衛門 腕前はわからず
江戸4人 元祖本因坊 腕前はわからず、高橋道角 腕前は角行落ち、久圓 腕前は角行落ち、十四屋宗安 腕前角行落ち
大坂1人 住吉屋仁右衛門 腕前は飛車と1枚半
長門1人 萩野眞甫 腕前は香車落ち
肥前1人 松本常古(宗左衛門こと) 腕前は香車と角落ち
美濃3人 紹尊(松本権兵衛こと) 腕前はわからず、北村何求 腕前はわからず、荒川道祏(半平こと) 腕前はわからず
備前1人 河内屋以仙(藤左衛門こと) 腕前はわからず
肥後1名 石田検校 腕前わからず
未考1人 別所素安 腕前は角行落ち
(当世)以下は現在の人を集めた。
象戯家3人 五代大橋宗桂 伊藤宗印 大橋宗與
京都13人 廣庭中務権少輔 腕前は角行落ち、菅谷宮内卿 腕前は片馬、望月仙閣(勘解由こと) 腕前は片馬、小原大介 腕前はわからず、石井承甫(泉屋吉右衛門こと) 腕前は角行落ち、神善四郎 腕前はわからず、久須見小兵衛 腕前はわからず、大黒屋長右衛門 腕前は片馬、菱屋喜右衛門 腕前は片馬、布屋平左衛門 腕前はわからず、奥田左平次 腕前は片馬、瞽者與都(谷都こと) 腕前は片馬、瞽者誰都 腕前は片馬
江戸3人 森田宗立(鎰屋十兵衛こと) 腕前は香車落ち、岩村検校 腕前は角行落ち、山崎勾當(田川こと、初めは関井という) 腕前はわからず
大坂3人 原喜右衛門 腕前は片馬、井田長左衛門 腕前は飛車と一枚半、弦屋傳左衛門 腕前は飛車と一枚半
加賀2人 添田宗大夫(神山孫兵衛こと) 腕前は角行落ち、嶋川市之進 腕前は片馬
安芸1人 松岡宗悦 腕前は角行落ち
伊勢1人 萬屋仁左衛門 腕前は一枚半
将棋三家が江戸へ移住した後も、京都に残った門弟などの将棋指し達は、将棋指南所を開いて普及につとめた。「男重寶記 三」には、次のような記録が残っている。
将棋指南會所
一、京婦屋町通二条下ル町 田代市左衛門
一、京衣棚三条下ル了頓辻子 いづみ屋吉右衛門
将棋番付も将棋の普及を表す資料の一つである。増川宏一「江戸時代の将棋」(尾本惠一編『日本文化としての将棋』三元社、2002年)によると、現大阪府下の河内・和泉地方には幕末の約30年間の連続した番付が残されている。最終は安政4年(1857)で、実数約500名の愛棋家の名前が記されており、職業はこの地方特産の木綿製造業とその関連業者、運輸業、漁業が主で士分の者は著しく少ないという。
これらの資料によって18世紀以降幕末までの将棋の普及のほどがうかがい知れる。
江戸幕府が崩壊して以降、大橋家の御用達町人としての立場も消滅する。明治に入って11代大橋宗桂の門弟で棋聖と呼ばれた天野宗歩の弟子である小野五平が11世名人伊藤宗印の跡を継いで12世名人となり、その跡を宗印門下の関根金次郎(13世名人)が継いで、それが世襲制による名人位の最後であった。変って昭和10年に実力名人制度が確立し、昭和12年に木村義雄初代名人が誕生して、現在の棋界繁栄の土台を築くが、言うまでも無くこの礎となったのは、江戸時代の将棋家の努力の賜物であった。
駒 台
江戸時代には駒台がなかった。正式な対局には駒箱や懐紙を盤側に置いてそこに手駒を並べた。しかし、一般には持ち駒は手に握って対局したので、その確認が揉め事を引き起こした。「将棋絹篩」の「駒組の大法」でも、相手の持ち駒は何かと問うことを諌める一項がある。これは持ち駒確認による揉め事を予防する意味があると思われる。このため、明治に入って飯塚力造によって考案されたのが駒台である。駒台には1本脚のものと4本脚のものがあり、愛好者の間で急速に普及し、明治後期には万朝報(よろずちょうほう)が通信販売を始めるほどであった。
七段3名、六段1名、五段4名、四段17名、三段22名、二段30名、初段90名
また、宝永4年(1707)刊行の「象戯綱目 巻一」には全国の将棋上手およそ50人を次のように載せている。
「象戯綱目」に載る将棋上手〔当館蔵〕
(往世)以下はむかしの人を集めた。
象戯家5人 元祖大橋宗桂 二代大橋宗古 三代大橋宗桂 四代伊藤宗看 故大橋宗與
京都6人 廣庭中書 腕前は香車落ち、檜垣是安(市兵衛こと) 腕前は香車落ち、石井承意(泉屋善兵衛こと) 腕前はわからず、丹下圖書 腕前はわからず、田代市左衛門 腕前は片馬、御簾屋七郎右衛門 腕前はわからず
江戸4人 元祖本因坊 腕前はわからず、高橋道角 腕前は角行落ち、久圓 腕前は角行落ち、十四屋宗安 腕前角行落ち
大坂1人 住吉屋仁右衛門 腕前は飛車と1枚半
長門1人 萩野眞甫 腕前は香車落ち
肥前1人 松本常古(宗左衛門こと) 腕前は香車と角落ち
美濃3人 紹尊(松本権兵衛こと) 腕前はわからず、北村何求 腕前はわからず、荒川道祏(半平こと) 腕前はわからず
備前1人 河内屋以仙(藤左衛門こと) 腕前はわからず
肥後1名 石田検校 腕前わからず
未考1人 別所素安 腕前は角行落ち
(当世)以下は現在の人を集めた。
象戯家3人 五代大橋宗桂 伊藤宗印 大橋宗與
京都13人 廣庭中務権少輔 腕前は角行落ち、菅谷宮内卿 腕前は片馬、望月仙閣(勘解由こと) 腕前は片馬、小原大介 腕前はわからず、石井承甫(泉屋吉右衛門こと) 腕前は角行落ち、神善四郎 腕前はわからず、久須見小兵衛 腕前はわからず、大黒屋長右衛門 腕前は片馬、菱屋喜右衛門 腕前は片馬、布屋平左衛門 腕前はわからず、奥田左平次 腕前は片馬、瞽者與都(谷都こと) 腕前は片馬、瞽者誰都 腕前は片馬
江戸3人 森田宗立(鎰屋十兵衛こと) 腕前は香車落ち、岩村検校 腕前は角行落ち、山崎勾當(田川こと、初めは関井という) 腕前はわからず
大坂3人 原喜右衛門 腕前は片馬、井田長左衛門 腕前は飛車と一枚半、弦屋傳左衛門 腕前は飛車と一枚半
加賀2人 添田宗大夫(神山孫兵衛こと) 腕前は角行落ち、嶋川市之進 腕前は片馬
安芸1人 松岡宗悦 腕前は角行落ち
伊勢1人 萬屋仁左衛門 腕前は一枚半
将棋三家が江戸へ移住した後も、京都に残った門弟などの将棋指し達は、将棋指南所を開いて普及につとめた。「男重寶記 三」には、次のような記録が残っている。
将棋指南會所
一、京婦屋町通二条下ル町 田代市左衛門
一、京衣棚三条下ル了頓辻子 いづみ屋吉右衛門
将棋番付も将棋の普及を表す資料の一つである。増川宏一「江戸時代の将棋」(尾本惠一編『日本文化としての将棋』三元社、2002年)によると、現大阪府下の河内・和泉地方には幕末の約30年間の連続した番付が残されている。最終は安政4年(1857)で、実数約500名の愛棋家の名前が記されており、職業はこの地方特産の木綿製造業とその関連業者、運輸業、漁業が主で士分の者は著しく少ないという。
これらの資料によって18世紀以降幕末までの将棋の普及のほどがうかがい知れる。
江戸幕府が崩壊して以降、大橋家の御用達町人としての立場も消滅する。明治に入って11代大橋宗桂の門弟で棋聖と呼ばれた天野宗歩の弟子である小野五平が11世名人伊藤宗印の跡を継いで12世名人となり、その跡を宗印門下の関根金次郎(13世名人)が継いで、それが世襲制による名人位の最後であった。変って昭和10年に実力名人制度が確立し、昭和12年に木村義雄初代名人が誕生して、現在の棋界繁栄の土台を築くが、言うまでも無くこの礎となったのは、江戸時代の将棋家の努力の賜物であった。
駒 台
江戸時代には駒台がなかった。正式な対局には駒箱や懐紙を盤側に置いてそこに手駒を並べた。しかし、一般には持ち駒は手に握って対局したので、その確認が揉め事を引き起こした。「将棋絹篩」の「駒組の大法」でも、相手の持ち駒は何かと問うことを諌める一項がある。これは持ち駒確認による揉め事を予防する意味があると思われる。このため、明治に入って飯塚力造によって考案されたのが駒台である。駒台には1本脚のものと4本脚のものがあり、愛好者の間で急速に普及し、明治後期には万朝報(よろずちょうほう)が通信販売を始めるほどであった。