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丑-寺社富興行 2

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御免富の嚆矢

御免の如何にかかわらず、富突という見地からすれば、〔埋草五〕に寛永十二年の半井ト養作と伝わる落髪千句の中に富の札に関する記述があり、「寛永より富突といふ事ありとしるべし、」と記すことから、寛永年間より始まったという説もありますが、御免富かどうかは不明です。文献による明確な根拠をもっては、その嚆矢は京都の仁和寺が享保十五年に幕府の許可を得て江戸護国寺で興行した富突であるというのが近年までの通説でした。
しかし、浦井正明氏は「天王寺(感應寺)富突考」(大久保良順先生傘寿記念論文集刊行会編『大久保良順先生傘寿記念論文集 仏教文化の展開』、山喜房書林、平成六年)において、感應寺の史料をもとに、「同寺が元禄十二年に正式に寛永寺末の天台宗寺院に改宗した直後に、檀家を持たない同寺が三十八石余の朱印のみではとても広大な境内と伽藍の維持は不可能であるとして、更に百六十二石の加増を求め、都合二百石の朱印を」出願したが却下され、その代わりに直ちに富突興行を申請し、「いわゆる御免富の興行認可を受けたのである」と結論付け、通説の御免富の開始時期が享保十五年から三十年も遡ると記しています。
さらに、感應寺の富突関係資料の中に同じ寛永寺末の戸塚村宝泉寺の記録が残ることから、感應寺が当初富突興行の公許を願い出た時に、宝泉寺の富突を手本にしていることがわかるとし、これを御免富に準ずるものと解釈するならば、さらにその起源は遡及できるとも述べています。


富御祝儀渡帳(護国山天王寺所蔵)