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丑-寺社富興行 3

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御免富の嚆矢

 この御免富の範囲については、前記のとおり寛政改革の折に興行場所を江戸京大阪の3ヶ所に限ったほか、毎月興行の分を年3度にするなど抑制が加えられました。
しかし、〔徳川禁令考 四十二 富突〕の「富突并勧化之儀ニ付評議仕候趣申上候書付」によると、文政4年(1821)に至って、富興行に対する規制が緩和されるようになり、文政8年(1825)興行箇所の増加や1年3ヶ月の興行枠も変更され、1ヶ月に15口、総数では45口までの興行が許可されました。
ただし、その中には、谷中天王寺、牛込寶泉寺、日光准后・日光東叡の両山、増上寺、仁和寺宮、紀州熊野三山、熱田、摂州四天王寺、太秦安養寺などの富興行は除外されています。この緩和策によって、天保5年(1834)丑年の取調べでは、73口の御免富があったと記されています。
しかし、この年、水野忠邦が老中についてからは、世上の風紀に関わるとして、新規富突を一切許可せず、満期の興行は打ち切りとなりました。その結果、天保13年(1842)には実数13口にまで減じ、停止が命ぜられたのです。