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卯-江戸の富興行 4

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隠富と影富

 字義から見ると、隠富は御免富と関係なく隠れて行なう興行で、一方の影富は、御免富の当り札を利用して本興行に付随して行なわれたものといえます。
 しかし、感應寺の隠富事件の場合、明らかに感應寺の富突の当り札を利用した富籤であり、その意味では影富と称してもおかしくはありません。つまり、影富も広い意味での無許可で行なわれた隠富に含まれるのではないでしょうか。ただこの場合、感應寺の門前茶屋を舞台に繰り広げられ、留守居の性空なども監督責任を問われたため、同寺の記録に残されています。
 元禄以降、「とみつき講」や「百人講」あるいは「大黒つき」、「けんとく」などと称する富突まがいの行為に対して禁令が度々出ていますが、これはまさしく隠富といえます。こういった御免富とは関係のない無許可の富興行に関しては、〔御仕置類例集〕に次のような判例が載っています。

①文化4年、飛州大野郡高山壹之町村の久左衛門が発起人となり、傳左衛門・藤十郎の同意協力のもとに村内で興行した隠富の罪により、久左衛門・傳左衛門に中追放、藤十郎に所払の判決が下った。

②天明4年、播州美嚢郡下和田村年寄源左衛門が講元となって行なった隠富の罪により、徳用銀(利銀)取上げ、所払の判決が下った。

③文化14年、上州勢多郡徳川郷百姓六七蔵、榮助、勇助らが村内永徳寺本堂修復の理由をもって頼母子講の名目で富興行を行い、世話料として金2分2朱ずつ受取っていた罪で、3人とも世話料を取上げ、30日手鎖となった。

 一方、影富については、文化文政期以降の富突隆盛に併行して生じたもののようで、〔遊歴襍記初篇下〕の「目黒金毘羅」の題で、文化9年の記として、数十人の仲買が興行元と組んで残らず富札を買占め、金百疋の札を買人次第で1両にも2両にも販売した。これによって札料が高騰し、富札が高値の花となったため、影富が流行った。元方を武士や町人が内緒でつとめ目黒・谷中・湯島の3ヶ所の1の富の番号によって利得を争った、ということが書かれています。〔寛天見分記〕には同じ目黒・谷中・湯島の3富の1の富の番号の書付をもって、富の出番というのを憚り、「おはなしおはなし」という文句を唱えて札を売り歩き、1の富の番号を当て物にして、第付と称して興行を行い、1銭2銭を賭けて1文を8文にする割合で、大金を賭ける人もあったといいます。同様の事柄は、文化8年5月と文化10年10月の記録にも残っています。〔御仕置類例集〕の判例を以下にあげておきます。

①文化14年、本所清水町十右衛門店清兵衛が元方となり、感應寺他2ヶ寺の富興行を当り番号を利用して、第付と称して番号を記した小札を拵え、湯屋や髪結床へ持参したり、あるいは知人に頼んで1貫文の賭銭につき100文の世話料を渡して4月~6月までの間に8回興行し、8貫文の利益を得ていた罪で遠島となった。

②文化14年関口水道町源兵衛店弘平の倅次郎吉が同所の勘五郎の勧めに乗じて谷中感應寺の一の富の番号で当りを決めて、第付と称して百文を賭けて当り、当り金を受取っていた罪で、過料3貫文を科せられた。