卯-江戸の富興行 2
感應寺の富突興行
感應寺の富突興行回数等の変遷
文化13年の富興行継続願(護国山天王寺所蔵「富興行一件記 三」)
そこで、護国山天王寺に残る史料「富興行一件記 壱・弐・三」をもとに、感應寺の富突興行がどのような頻度で行われていたのか、あるいはその変遷と幕府の対応について、年代順に列記してみます。
元禄12年(1699)に天台宗改宗を命ぜられる。
│
元禄年中
富突興行を願い上げる。開始時には銭富で、1年に正五九月三度の富興行が許される。
│
享保13年(1728)
富突停止令が出たが、感應寺と宝泉寺だけはその由緒から興行を許される。
│
元文4年(1739)
銭富を金富に変えて、年3度の興行を年6度に改める。
│
延享5年(1748)
感應寺が火災に遭い、再建のために毎月興行を願い出て公許されてる。これについては、10ヶ年ごとに年延願を提出して相続することになる。
│
宝暦7年(1757)
この年から7年ごとの年延願提出に変わる。毎月興行には変更なし。
│
明和元年(1764)
宝暦8年から7年目となる翌年から7ヶ年、安永元年(1772)までの年延願を提出。
│
安永3年(1774)
2月の寛永寺法事による同月の定期興行日延引願で、「谷中感應寺毎月一八日富興行仕候」とあり、安永元年以降も年延願が認められ、毎月興行が許されていたことがわかる。
│
安永4年(1775)
安永元年から三年後に今度は10ヶ年の興行延引を願い出て許可されている。この年延願にはその理由に関する記述はない。
│
寛政3年(1791)
年3回の富興行に抑制される。
│
寛政5年(1793)
この年の興行以後差留を命ぜられる。
│
寛政10年(1798)
その後、再三の富突復活願と幕府からの照会の応酬の後、同年2月27日に至って、10ヶ年の間正五九月3度興行が御免となる。
│
文化4年(1807)
文化5年から10ヶ年の間、正五九月の年3回興行が御免となる
│
文化13年(1816)
仁王門再建堂坊修理のために翌々寅年(1818)から10ヶ年間の年3回興行の御免願が出され、翌年12月に許可が下りる。
│
文政4年(1821)
寛永寺富興行の場所が平川竜眼寺へ移転したことを理由に、毎月興行の御免を願い出る。
│
文政5年(1822)
毎月興行が同年より10ヶ年間の期限にて許可される。
│
天保3年(1832)
前年2月願い出の10ヶ年間の継続願が御免となる。
│
天保13年3月
幕府は例外なく富突興行の差留を命じ、ここで感應寺(この時期は天王寺に改称)の富突興行も終焉を迎える。
②感應寺の富突興行の仕法
寛政10年の富仕法定書(護国山天王寺所蔵「富興行一件記 弐」)
ここで、感應寺の富突興行仕法について仕法書をもとに、簡単に説明をします。
年間興行回数については、前述のとおりですが、仕法としての重要な変更点は札料の変更とそれに伴う札数の変更、及び宝金仕法です。感應寺の場合、札料は元文4年(1739)に金富となってから文政6年の仕法替まで、金1分と変更はなく高額です。それ以後天保13年の停止令まで、札料は金2朱に半減しています。札数は文政6年の札料の切り下げに伴って、1000枚から2700枚に増え、さらに天保3年には3000枚まで増加しました。
感應寺の宝金仕法は至ってシンプルで、文政6年以前は全部で50回富札を突きました。そのうち1番目、2番目、3番目、50番目(突留)の当りは宝金が大きく、次のとおりです。
第一之富─金100両
第二之富─金20両
第三之富─金10両
突留之富─金5両
これらの富に当った場合、その1割は奉納金として感應寺に納め、この時には院代役人立会いのうえ奉納します。それ以外の46枚の札は、花富といって金2分の宝金が出ます。これに関しては奉納金がなく、満額の引渡しとなります。宝金の引渡しは当り札を感應寺に持参し、札の割印を確認のうえ渡すきまりでした。引渡し期間は、興行の翌日から次の興行日までの朝五ツ時から夕七ツ時の間で、これを過ぎると受取りに応じないことになっていました。
文政6年以降の宝金仕法は若干複雑となり、次のとおりです。
第一之富─金100両
第二之富─金20両
第三之富─金10両
第十番之富─金1両
第二十番之富─金1両
第三十番之富─金1両
第四十番之富─金1両
第五十番之富─金15両
第六十番之富─金1両
第七十番之富─金1両
第八十番之富─金1両
第九十番之富─金1両
第百番之富─金50両
花富(87本)─金2分
他社寺の場合、時代が下がるにつれて富仕法が派手になり、札に十二支、春夏秋冬、松竹鶴亀、東西南北、いろは、花鳥風月などの印が入ります。こういった印別に一定数の同じ数字が振られるのです。こうなると札数も万単位になります。そして、宝金も本当りの番号以外に、その隣の前後数字(両袖)やまたその隣の数字(又袖)といったところまで出ます。これで、一つの突札に対して本当りを含めて5つの当りが出ることになります。そのうえさらに、印違いといって同番号ではあるけれども印が違う札に対しても当りが出る場合があり、またその印違いの両袖・又袖があるといった具合に、射幸心を煽る仕法もありました。
文化13年の富興行継続願(護国山天王寺所蔵「富興行一件記 三」)
そこで、護国山天王寺に残る史料「富興行一件記 壱・弐・三」をもとに、感應寺の富突興行がどのような頻度で行われていたのか、あるいはその変遷と幕府の対応について、年代順に列記してみます。
元禄12年(1699)に天台宗改宗を命ぜられる。
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元禄年中
富突興行を願い上げる。開始時には銭富で、1年に正五九月三度の富興行が許される。
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享保13年(1728)
富突停止令が出たが、感應寺と宝泉寺だけはその由緒から興行を許される。
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元文4年(1739)
銭富を金富に変えて、年3度の興行を年6度に改める。
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延享5年(1748)
感應寺が火災に遭い、再建のために毎月興行を願い出て公許されてる。これについては、10ヶ年ごとに年延願を提出して相続することになる。
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宝暦7年(1757)
この年から7年ごとの年延願提出に変わる。毎月興行には変更なし。
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明和元年(1764)
宝暦8年から7年目となる翌年から7ヶ年、安永元年(1772)までの年延願を提出。
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安永3年(1774)
2月の寛永寺法事による同月の定期興行日延引願で、「谷中感應寺毎月一八日富興行仕候」とあり、安永元年以降も年延願が認められ、毎月興行が許されていたことがわかる。
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安永4年(1775)
安永元年から三年後に今度は10ヶ年の興行延引を願い出て許可されている。この年延願にはその理由に関する記述はない。
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寛政3年(1791)
年3回の富興行に抑制される。
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寛政5年(1793)
この年の興行以後差留を命ぜられる。
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寛政10年(1798)
その後、再三の富突復活願と幕府からの照会の応酬の後、同年2月27日に至って、10ヶ年の間正五九月3度興行が御免となる。
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文化4年(1807)
文化5年から10ヶ年の間、正五九月の年3回興行が御免となる
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文化13年(1816)
仁王門再建堂坊修理のために翌々寅年(1818)から10ヶ年間の年3回興行の御免願が出され、翌年12月に許可が下りる。
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文政4年(1821)
寛永寺富興行の場所が平川竜眼寺へ移転したことを理由に、毎月興行の御免を願い出る。
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文政5年(1822)
毎月興行が同年より10ヶ年間の期限にて許可される。
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天保3年(1832)
前年2月願い出の10ヶ年間の継続願が御免となる。
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天保13年3月
幕府は例外なく富突興行の差留を命じ、ここで感應寺(この時期は天王寺に改称)の富突興行も終焉を迎える。
②感應寺の富突興行の仕法
寛政10年の富仕法定書(護国山天王寺所蔵「富興行一件記 弐」)
ここで、感應寺の富突興行仕法について仕法書をもとに、簡単に説明をします。
年間興行回数については、前述のとおりですが、仕法としての重要な変更点は札料の変更とそれに伴う札数の変更、及び宝金仕法です。感應寺の場合、札料は元文4年(1739)に金富となってから文政6年の仕法替まで、金1分と変更はなく高額です。それ以後天保13年の停止令まで、札料は金2朱に半減しています。札数は文政6年の札料の切り下げに伴って、1000枚から2700枚に増え、さらに天保3年には3000枚まで増加しました。
感應寺の宝金仕法は至ってシンプルで、文政6年以前は全部で50回富札を突きました。そのうち1番目、2番目、3番目、50番目(突留)の当りは宝金が大きく、次のとおりです。
第一之富─金100両
第二之富─金20両
第三之富─金10両
突留之富─金5両
これらの富に当った場合、その1割は奉納金として感應寺に納め、この時には院代役人立会いのうえ奉納します。それ以外の46枚の札は、花富といって金2分の宝金が出ます。これに関しては奉納金がなく、満額の引渡しとなります。宝金の引渡しは当り札を感應寺に持参し、札の割印を確認のうえ渡すきまりでした。引渡し期間は、興行の翌日から次の興行日までの朝五ツ時から夕七ツ時の間で、これを過ぎると受取りに応じないことになっていました。
文政6年以降の宝金仕法は若干複雑となり、次のとおりです。
第一之富─金100両
第二之富─金20両
第三之富─金10両
第十番之富─金1両
第二十番之富─金1両
第三十番之富─金1両
第四十番之富─金1両
第五十番之富─金15両
第六十番之富─金1両
第七十番之富─金1両
第八十番之富─金1両
第九十番之富─金1両
第百番之富─金50両
花富(87本)─金2分
他社寺の場合、時代が下がるにつれて富仕法が派手になり、札に十二支、春夏秋冬、松竹鶴亀、東西南北、いろは、花鳥風月などの印が入ります。こういった印別に一定数の同じ数字が振られるのです。こうなると札数も万単位になります。そして、宝金も本当りの番号以外に、その隣の前後数字(両袖)やまたその隣の数字(又袖)といったところまで出ます。これで、一つの突札に対して本当りを含めて5つの当りが出ることになります。そのうえさらに、印違いといって同番号ではあるけれども印が違う札に対しても当りが出る場合があり、またその印違いの両袖・又袖があるといった具合に、射幸心を煽る仕法もありました。