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卯-江戸の富興行 3

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感應寺の富突興行にまつわる事件

 富突興行にはその射幸性から様々な事件が生じました。ここでは、前記浦井正明氏の研究成果(「御免富 ―その不正と事故―〔(西山松之助編『江戸町人の研究』、吉川弘文館、平成18年〕)をもとにして、「富突興行一件記壱・弐・三」に残るさまざまな事件を記載順に紹介したいと思います。

①隠富(かくしとみ)事件
 これは寛政元年(1789)に、感應寺門前水茶屋町の與惣次他21人が隠富をしていたことに関する事件です。事件の内容は、感應寺の富札の転売の罪と、感應寺の富札と同じ番号を振った私製の富札を作り、その販売協力者に札1枚につき10文の口銭を与えて安い値段で販売し、利益を得ていたという罪です。
 裁きは、首謀者與惣次は利益金の没収と所払いに、私製札の販売に加担した太兵衛他16名には口銭没収のうえ手鎖に、差配下の水茶屋の隠富を等閑にして取締らなかった古門前町名主太郎兵衛には過料銭5貫文を、同様に感應寺留守居性空にも取締不行届きのため逼塞を、門前茶屋町名主の兵左衛門ら19人にも同様に急度御叱りを申し付けられ、同時に水茶屋仲間の太兵衛他21名には富札の転売についても禁止の申付けがありました。


隠富事件に関する記録(護国山天王寺所蔵「富興行一件記 壱」)

②贋札事件
 天保7年の事件で、感應寺の富札書役の窪和三郎に対し、丹治という人が至急1500枚の富札製作を依頼し、窪和三郎がその求めに応じ富札を書いて渡したところ、600枚が不要になったということで差し戻されました。この事件がどうして発覚したのか、詳しいことはわかりませんが、問題はこのことについて書役の窪和三郎が報告もせずに勝手に書き増したことでした。富突は厳格な管理のもとで行なわれる興行ゆえに、窪和三郎がこの点に関して詫び状を出しています。富札は、割印をしたり特殊な書体を使ったりしていますので、容易には偽造できません。その点、書役に贋札を頼むというのは、ある種理にかなった犯罪であり、依頼者の丹治も相当の実力者であったと考えられます。


贋札事件に関する記録(護国山天王寺所蔵「富興行一件記 壱」)

③富札二枚突上がり事件
 享和4年(1804)正月18日定日の富突興行において、検使役人の目の前で、1の富が突き上げられました。その時、錐の先に富札が2枚突き上がってきたのです。しきたりに従い先の1枚を振り落とし、錐先の1枚を1の富として用いたところ、興行後、このような場合は検使役人に相談してから対処するようにとのことと、また、錐の穂先の長さも、現在の4分から札の厚さの寸法である2分余に直すようにとの仰せ渡しがありました。

④掛銅外れ事件
 これは、文化8年(1811)8月18日の興行時に、これも検使役人面前で起きた事故です。3の富まで突き上げられ、通例により錐を突き入れる穴の掛銅を閉めて箱を振り動かし、中の富札を混ぜていたとき、掛銅が外れて2・3枚の札がこぼれ落ちました。この時検使役人の意見を仰いだところ、続けるようにとのことでしたので、そのまま突留まで突き終わり本坊へ引き上げたところで、出役から掛銅外れの原因について照会がありました。留守居によると、掛銅担当の僧が不注意で蓋口の掛銅を掛けたと思い込み、振り交ぜ役の僧が箱を振ったため札がこぼれたということでした。これに対し、今後このような事態が起きたら、興行を続けないで、そのまま見分に付するようにとの指示がありました。
 この興行については一点疑問点が残ります。それは、文化8年といえば、感應寺の富突興行は正五九月の年3回興行の時期にあたります。しかし、この興行は8月に行なわれており、この興行は文化5年に公許され感應寺で行われた輪王寺宮の富突(上野富)ではないかと推察できます。


(掛銅外れ事件に関する記録(護国山天王寺所蔵「富興行一件記 弐」)

⑤当り札読み損ない事件
 文政5年(1822)9月18日の興行時に第1番の富が本来は509番のところ590番と読み損ない、検使役人から50番目まで突き終わったところで、もう一度読み直すようにとの指示を受けました。感應寺の富突は第1の富が最高金額の金100両ですから、札買人にとっては、誠にはた迷惑な話です。その説明責任のためか、届書の末尾に「札読圓暁院遠慮申付候」とあり、その時札読役であった圓暁院はお役御免になったようです。

⑥宝金受け取り遅延に係る訴訟事件
 天保3年(1832)2月18日の富突興行の際の札を、小石川上富坂町の金次郎店の彦兵衛が、同じく春日町の忠兵衛店の三次郎から買い受け、その時生国上総国羽生郡長楽寺村の伯父が病気と聞き、駆けつけました。その伯父は3月下旬に亡くなり、看病中に自分も同じ病気になって、漸く帰府したところ、富札の節当り(おそらく第50番富)に気付き、5月4日になって宝金の受取りに来ました。彦兵衛は病身により薬代にも難渋していたようです。寺側は仕法どおりに定日遅延により申し出を辞退したところ、訴訟になりました。寺社奉行の裁定によると、彦兵衛は困窮の身であるから、感應寺の方へは重々侘びを入れ、少々の合力金でも戴きたいと申し出るように申し渡すので、そのとおり彦兵衛が侘びに来たら、少々の合力金をやって欲しいとのことで、寺側は彦兵衛に結局金一両を差し出しています。ちなみに、第50番富の宝金は金2両2分であり、仕法違えにもかかわらず、彦兵衛は本来の宝金の4割にあたる合力金を受け取っています。