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第25回郷土文化講演会 2

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はじめに

小田
 ただいま、ご紹介にあずかりました大阪商業大学の小田と言います。私は、昭和58年に大阪商業大学に就職いたしまして、翌昭和59年に河内の郷土文化サークルセンターが発足いたしました。二十数年間、我々は河内の郷土文化サークルセンターの皆さまのために若干ですけれども、支えてきたつもりはありますが、今日この場に立っているというのは実に不思議な感じがいたします。
 去年でしたか、今ご挨拶されました川口会長より、一度喋っていただけないだろうかという話をいただきまして、お引き受けいたしました。事務局の谷本さんのほうから、「たくさん人が来られるように、面白いことを考えてくれないだろうか」という依頼もありました。「それなら」と、日頃我々が目にしているテレビとか映画、その中からあまり取り扱われたことのないようなお話をさせていただこうと考えた次第です。今日お話しする上で、テレビ・映画の描写と違っていたら、今日の講演は成功だったというふうに私は思っております。
 それでは、レジュメを見ていただけますでしょうか。今日は、「蔵屋敷」、「両替屋」「長屋の光景」の3本柱で組み立てています。
 最初が「蔵屋敷の業務」です。後でまた映りますが、米切手などを中心にお話をさせていただきます。
 2番目の「蔵屋敷に勤務する武士」、この話は商業史博物館に「浪速詰方日記」という福岡藩士の勘定役の書いた日記が残っておりまして、これは当博物館から出版していますが、その日記を読みますと実に多くの記事に遭遇しました。お祭りを見に行ったり、その辺りを散策したり、あるいは芝居とか芸能、物見遊山に出かけたり、お茶屋へよく行っております。会合や鰻を食べに行ったり、碁会所へ行っています。遊びでは新町とか曽根崎新地のお茶屋へ行って接待を受けています。こういったことをご紹介します。
 「蔵屋敷の祭祀」については、広島藩のように厳島神社を勧請して、日にちを決めて一般の人々にも開放しておりました。中には、特定の日ではなくて毎日いつでもそこへ行けるというような蔵屋敷もあったみたいです。
 「正月の蔵屋敷」は久留米藩の蔵屋敷の様子の絵がありまして、これを後でご紹介いたしますが、そこから何点かお話をしたいと思っています。
 続きまして、「両替屋」ですが、同じく「両替屋の業務」を簡単に紹介して、その後7ページの上のほうに「貨幣の種類」にいき、金貨、銀貨、銭貨といくつかの空白を設けています。この空白について、後程皆さんに考えていただき、会場からお答えを頂戴しようと思っています。その間に、私はお茶をいただくなりトイレへ行こうと企んでおります。
 3番目は、「川柳に詠まれた貨幣」ですね。これは7ページから8ページに書いております。川柳も非常にたくさんありますが、あまりたくさんご紹介しても、時間に限りがありますから、大判、小判、包封、金銀包、小粒銀、銭などを紹介して、江戸時代の人々は貨幣に対してどのような気持ちを抱いていたかをご理解していただこうと思っています。
 4番目の「釣り銭」ですが、私は長らく悩んでおりました。テレビなどを見ておりましても、物を購入した後「はい、お釣り」と言って、こういうふうに手は映るのです。でも、決して手の中の貨幣は映っていないのです。これは、シナリオ作家なり担当者が釣り銭のことをよく理解しておらない為だと思っています。2年前に、やっと私なりの考えをまとめ発表をして目処を付けましたが、今日はそういう話もさせていただくつもりでございます。
 そして、「長屋の光景」ですが、ただ長屋というのは落語などで紹介されておりますが、いったい長屋というのはどのようになっているのか知りたくなってきます。長屋を理解する一番元になるのが水帳と絵図ですから、そこから切り込みまして竈図(かまどず)、これは所帯別の図で、表長屋もあれば、裏長屋もある。あるいは、井戸も便所も芥もある。中には、表長屋、裏長屋の住人の商売まで書かれている、これなどもご紹介したいと思います。
 最後は、「長町の長屋」。長町と申しますのは今の日本橋筋です。日本橋筋のところに、古い方はご存じだろうと思うのですが、旧松坂屋がありまして今は高島屋になっているかと思います。そこから南の方面、ここら辺がひどい長屋でして、大阪府から不潔長屋と言われたところです。大阪で第5回内国勧業博覧会を迎えるというので、堺筋を拡幅しまして、不潔長屋を一部取っ払った場所でもあります。幕末・明治期にはどういう人々が住んでいたかというお話もさせていただこうと、考えております。