蔵屋敷 3
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蔵屋敷に勤務する武士
小田
以上で、米切手は終わりまして、「蔵屋敷に勤務する武士」にいきます。これは、先ほど申し上げましたように、「浪速詰方日記」を、3年ぐらい前にまとめました。その時に<福岡藩士はよく遊ぶな>と思いまして、気になっていました。
この「浪速詰方日記」は、3冊に分かれておりまして、1冊目が天保10年7月22日から天保12年5月4日。
2度目が嘉永2年11月11日から嘉永4年5月3日。
それから、4度目が文久元年7月22日から文久2年7月18日まで、福岡藩の勘定奉行に就任した大岡克俊が書いた日記です。
残念ながら、どういうわけか、3度目の日記はありません。
大岡克俊勘定奉行以下、彼らがどのような付き合い方をしていたかと言いますと、祭礼を、例にとると天保11年6月14日には南八幡宮の祭礼に行っています。終わってから「河作方」に行きます。「河作」、これは略しています。本当は、河内屋作兵衛です。ここはお茶屋さんです。
6月25日は天満天神宮の方へお参りした後は、今度は「河佐」、これは河内屋佐兵衛です。ここもお茶屋です。これは、覚えておいていただきたいと思うのですが、調べましたら曽根崎新地2丁目にあります。これから、物すごく出てまいります。
①祭礼
小田
9月25日には、天満天神宮の祭礼がありお参りに行き、流鏑馬などを見物しております。
同27日には御霊宮に行っております。
明けて天保12年の正月10日は、今宮戎に参っています。終わった後、河作へ遊びに行っています。
正月25日に天満天神宮へ参詣して、6月17日には、また御霊宮の方へ参っています。
6月22日には、座間宮の方へ行っています。それから、また河佐へ行っているわけです。
6月25日、これも天満天神宮の方へお参り後、饗応で河佐へ行っております。
6月29日、これは住吉宮の祭礼に行っているのですが、その後河佐へ遊びに行っている。
とにかく、お茶屋さんへよく通っていました。
これは「祭礼」ですが、祭礼に関しては重要な話がありまして、武士たちは銀主などにお金を借りている。そういう手前があるものですから、この機会に饗応しながら武士の方が日頃の労をねぎらっているわけです。このときにまた新たに借金しようと企んでいて、微妙な駆け引きがこの辺りで展開していると思われます。ですから、ただ単に河作へ、それは自分らも楽しんでいるのでしょうが、それだけではなくて、行けばやはり仕事として、お金を借りる算段はそこでしているわけです。
②散策
小田
2番目の「散策」は、最初の地図をちょっと出していただけませんか。
これは、嘉永3年7月18日頃になりますと、山崎はなへ納涼へ出かけているのですね。山崎はなと言いますのは、中之島の先、ちょうどこの辺りですね。この辺りに夕涼みに出かけています。
また2日置いて、20日には難波橋の方へ納涼に出かけています。たぶん僕が思うには、船を出しても、橋の上にいても、きっと川面の涼しい風が伝わってくるのでしょう。それで、難波橋や船で山崎はなへ夕涼みに出かけております。
先ほど難波橋をご紹介しましたが、後の話でまた難波橋が出ております。よほど難波橋が気に入っているのですかね。あと、2つほどあるのですが、それも難波橋の方へ行っております。
③芝居・芸能
小田
「芝居・芸能」の話になるのですが、当時、道頓堀に五座がありましたから、そういう場所に出かけて観劇しているのです。あとは神社です。
生國魂神社にしろ、高津神社にしろ、御霊神社にしろ、そういう場所で簡単な芸能を演じていましたし、小屋を持っているところもありました。日頃庶民はそういうところで楽しんでいたのではないのでしょうか。
道頓堀にある五座の中で、中座へ行きますと、いい桟敷で銀21匁かかっているのです。悪いところでも銀19匁です。これは、大変な金額です。簡単に言いますと大体1ヵ月の生活費が一家4人で銀90匁ぐらいが給料だと思ってください。1回見に行って銀21匁も取られたら、これは結構高いわけです。普通の生活感覚では行かないのではないかと。
逆に言うとなかなかそういうところは行けないが、神社でやっている大道芸であるとか小屋がけとか、そういうものを見て、その辺に屋台も出ていることでしょうから、屋台で食事をして、楽しい一日を終わったのではないかと思っています。
④物見遊山
小田
その後、「物見遊山」ということになるのですが、これなども網島があります。網島は景観にすぐれ、別荘を保有している人もいました。そこに行き、後また河佐に行ったり、また安治川の方に鯉の漁を一緒に見学に行っているのです。鯉とか鯔、網で鯔をとるのでしょう。そんなことを楽しんでいます。
野田の方にも行っております。野田は牡丹が有名であったし、大仁村(オオニムラ)というのでしょうか。ここに有名な玉藤があり、麦飯が有名だったらしいです。そこに行った帰りには、また河佐へ行っている。天満樋之口町辺りが花盛りになっていて、その花を見に行きまして、その後帰りに河佐へ行く。何しろ、よく遊んでおります。
⑤茶屋
小田
それから、「茶屋」の話になりますが、接待するほうの町人ですが、鴻池屋・天王寺屋・平野屋など、いろいろあると思うのですが、そのような町人たちがどのような接待をして振る舞ったかと言いますと、そのような場所に連れて行くのですが、自分自身は遊ばずに帰ってくるのです。
例えば、鴻池屋の規定から言いますと、新町などへ、武士や町人と同行の誘いがあっても、家法の掟として「お供はできないとして、お断りしなさい」と、これが鴻池家の家訓です。
それから、大阪の平野町にある有名な小西家、薬種問屋です。ここには「萬精記」という店訓があるのですが、それによりますと、やはり「客と一緒に遊郭に遊びに行ってもいい。だが、おまえは早く帰りなさい」と、そういう戒めは、きちんと守られていたと思います。
⑥会合
小田
「会合」の方で、碁とか将棋は、当時の武士にとって嗜みですので、よくあることです。
それと、変わったところで鰻会というのがありまして、これは我々で言うと、何か適当な名前を付けて、鰻を食べながら話をするのではなくて、やはり藩財政が厳しいですから、やはり藩の金融をつかさどる銀主、番頭さんなどの交流の場であった。そこで、また貸金返済を督促されたら、「いや、藩は厳しいから、もうちょっと待ってくれ」と、逆に「しんどいから、もっと金を貸してくれ」ないか。そのような話し合いがおこなわれたと推察しています。
金を返済してほしい町人と、金は少しでも返さずに、うまく行けば新たな借金をしたい武士側との攻防が、あったのではなかろうかと思っております。
⑦土産贈答
小田
「土産贈答」のところでは、素麺とか土地のお茶、博多の帯とか蝋燭、それから干鮎、中野岩見守が、大坂町奉行のお役人ですが、この方が就任の時には、「御太刀銀馬代五枚御書」と書いています。
銀馬代といいますのは、これは平台なのですが、この上に乗せた紙切れに「銀一枚」と書かれているのです。それが5枚張ってあるのです。「銀一枚」というのは銀十両のことですから、銀一両が銀4匁3分ですから、銀一枚がその10倍、銀43匁です。それに5を掛けたら銀215匁です、全部で銀215匁と太刀と一緒に贈った。だから、結構な物いりです。
先ほどの生活費から考えてもらいますと、先程銀90匁と言いました、その2倍少しですね。仮に私の給料が、40万円ぐらいだとすると、90万円ぐらいのものを贈っているのです。
食物は、船方の方にナマコを贈ったりする。ナマコとか鯰を贈っています。これは天ぷらにしたり、蒲焼きですか。たたきにしてもいただくと書いていますが、鯰やナマコなどを贈っておりました。
⑧新町・曽根崎新地
小田
最後の「新町・曽根崎新地」の話になるのですが、南では吉田屋があるのですが、やはり先ほどの観劇の話と一緒で結構値段が高いのです。太夫・天神クラスの女性を呼ぼうとすれば、銀30匁~銀35匁ほどかかるわけですから、普通の人はそういう場所に遊びに行くことができません。
では、どうしたのかと言われると、新町は公許ですが、公許でない堀江とか難波新地・坂町等があるわけです。そこへ行って遊んでいた。それでも銀25匁前後は必要です。
劇とかを見ますと、櫓のある中座・角座がありますが、普通では行けなかった。そういう新町にしても、やはり高価ですから簡単には遊びに行けないわけです。
以上で、米切手は終わりまして、「蔵屋敷に勤務する武士」にいきます。これは、先ほど申し上げましたように、「浪速詰方日記」を、3年ぐらい前にまとめました。その時に<福岡藩士はよく遊ぶな>と思いまして、気になっていました。
この「浪速詰方日記」は、3冊に分かれておりまして、1冊目が天保10年7月22日から天保12年5月4日。
2度目が嘉永2年11月11日から嘉永4年5月3日。
それから、4度目が文久元年7月22日から文久2年7月18日まで、福岡藩の勘定奉行に就任した大岡克俊が書いた日記です。
残念ながら、どういうわけか、3度目の日記はありません。
大岡克俊勘定奉行以下、彼らがどのような付き合い方をしていたかと言いますと、祭礼を、例にとると天保11年6月14日には南八幡宮の祭礼に行っています。終わってから「河作方」に行きます。「河作」、これは略しています。本当は、河内屋作兵衛です。ここはお茶屋さんです。
6月25日は天満天神宮の方へお参りした後は、今度は「河佐」、これは河内屋佐兵衛です。ここもお茶屋です。これは、覚えておいていただきたいと思うのですが、調べましたら曽根崎新地2丁目にあります。これから、物すごく出てまいります。
①祭礼
小田
9月25日には、天満天神宮の祭礼がありお参りに行き、流鏑馬などを見物しております。
同27日には御霊宮に行っております。
明けて天保12年の正月10日は、今宮戎に参っています。終わった後、河作へ遊びに行っています。
正月25日に天満天神宮へ参詣して、6月17日には、また御霊宮の方へ参っています。
6月22日には、座間宮の方へ行っています。それから、また河佐へ行っているわけです。
6月25日、これも天満天神宮の方へお参り後、饗応で河佐へ行っております。
6月29日、これは住吉宮の祭礼に行っているのですが、その後河佐へ遊びに行っている。
とにかく、お茶屋さんへよく通っていました。
これは「祭礼」ですが、祭礼に関しては重要な話がありまして、武士たちは銀主などにお金を借りている。そういう手前があるものですから、この機会に饗応しながら武士の方が日頃の労をねぎらっているわけです。このときにまた新たに借金しようと企んでいて、微妙な駆け引きがこの辺りで展開していると思われます。ですから、ただ単に河作へ、それは自分らも楽しんでいるのでしょうが、それだけではなくて、行けばやはり仕事として、お金を借りる算段はそこでしているわけです。
②散策
小田
2番目の「散策」は、最初の地図をちょっと出していただけませんか。
これは、嘉永3年7月18日頃になりますと、山崎はなへ納涼へ出かけているのですね。山崎はなと言いますのは、中之島の先、ちょうどこの辺りですね。この辺りに夕涼みに出かけています。
また2日置いて、20日には難波橋の方へ納涼に出かけています。たぶん僕が思うには、船を出しても、橋の上にいても、きっと川面の涼しい風が伝わってくるのでしょう。それで、難波橋や船で山崎はなへ夕涼みに出かけております。
先ほど難波橋をご紹介しましたが、後の話でまた難波橋が出ております。よほど難波橋が気に入っているのですかね。あと、2つほどあるのですが、それも難波橋の方へ行っております。
③芝居・芸能
小田
「芝居・芸能」の話になるのですが、当時、道頓堀に五座がありましたから、そういう場所に出かけて観劇しているのです。あとは神社です。
生國魂神社にしろ、高津神社にしろ、御霊神社にしろ、そういう場所で簡単な芸能を演じていましたし、小屋を持っているところもありました。日頃庶民はそういうところで楽しんでいたのではないのでしょうか。
道頓堀にある五座の中で、中座へ行きますと、いい桟敷で銀21匁かかっているのです。悪いところでも銀19匁です。これは、大変な金額です。簡単に言いますと大体1ヵ月の生活費が一家4人で銀90匁ぐらいが給料だと思ってください。1回見に行って銀21匁も取られたら、これは結構高いわけです。普通の生活感覚では行かないのではないかと。
逆に言うとなかなかそういうところは行けないが、神社でやっている大道芸であるとか小屋がけとか、そういうものを見て、その辺に屋台も出ていることでしょうから、屋台で食事をして、楽しい一日を終わったのではないかと思っています。
④物見遊山
小田
その後、「物見遊山」ということになるのですが、これなども網島があります。網島は景観にすぐれ、別荘を保有している人もいました。そこに行き、後また河佐に行ったり、また安治川の方に鯉の漁を一緒に見学に行っているのです。鯉とか鯔、網で鯔をとるのでしょう。そんなことを楽しんでいます。
野田の方にも行っております。野田は牡丹が有名であったし、大仁村(オオニムラ)というのでしょうか。ここに有名な玉藤があり、麦飯が有名だったらしいです。そこに行った帰りには、また河佐へ行っている。天満樋之口町辺りが花盛りになっていて、その花を見に行きまして、その後帰りに河佐へ行く。何しろ、よく遊んでおります。
⑤茶屋
小田
それから、「茶屋」の話になりますが、接待するほうの町人ですが、鴻池屋・天王寺屋・平野屋など、いろいろあると思うのですが、そのような町人たちがどのような接待をして振る舞ったかと言いますと、そのような場所に連れて行くのですが、自分自身は遊ばずに帰ってくるのです。
例えば、鴻池屋の規定から言いますと、新町などへ、武士や町人と同行の誘いがあっても、家法の掟として「お供はできないとして、お断りしなさい」と、これが鴻池家の家訓です。
それから、大阪の平野町にある有名な小西家、薬種問屋です。ここには「萬精記」という店訓があるのですが、それによりますと、やはり「客と一緒に遊郭に遊びに行ってもいい。だが、おまえは早く帰りなさい」と、そういう戒めは、きちんと守られていたと思います。
⑥会合
小田
「会合」の方で、碁とか将棋は、当時の武士にとって嗜みですので、よくあることです。
それと、変わったところで鰻会というのがありまして、これは我々で言うと、何か適当な名前を付けて、鰻を食べながら話をするのではなくて、やはり藩財政が厳しいですから、やはり藩の金融をつかさどる銀主、番頭さんなどの交流の場であった。そこで、また貸金返済を督促されたら、「いや、藩は厳しいから、もうちょっと待ってくれ」と、逆に「しんどいから、もっと金を貸してくれ」ないか。そのような話し合いがおこなわれたと推察しています。
金を返済してほしい町人と、金は少しでも返さずに、うまく行けば新たな借金をしたい武士側との攻防が、あったのではなかろうかと思っております。
⑦土産贈答
小田
「土産贈答」のところでは、素麺とか土地のお茶、博多の帯とか蝋燭、それから干鮎、中野岩見守が、大坂町奉行のお役人ですが、この方が就任の時には、「御太刀銀馬代五枚御書」と書いています。
銀馬代といいますのは、これは平台なのですが、この上に乗せた紙切れに「銀一枚」と書かれているのです。それが5枚張ってあるのです。「銀一枚」というのは銀十両のことですから、銀一両が銀4匁3分ですから、銀一枚がその10倍、銀43匁です。それに5を掛けたら銀215匁です、全部で銀215匁と太刀と一緒に贈った。だから、結構な物いりです。
先ほどの生活費から考えてもらいますと、先程銀90匁と言いました、その2倍少しですね。仮に私の給料が、40万円ぐらいだとすると、90万円ぐらいのものを贈っているのです。
食物は、船方の方にナマコを贈ったりする。ナマコとか鯰を贈っています。これは天ぷらにしたり、蒲焼きですか。たたきにしてもいただくと書いていますが、鯰やナマコなどを贈っておりました。
⑧新町・曽根崎新地
小田
最後の「新町・曽根崎新地」の話になるのですが、南では吉田屋があるのですが、やはり先ほどの観劇の話と一緒で結構値段が高いのです。太夫・天神クラスの女性を呼ぼうとすれば、銀30匁~銀35匁ほどかかるわけですから、普通の人はそういう場所に遊びに行くことができません。
では、どうしたのかと言われると、新町は公許ですが、公許でない堀江とか難波新地・坂町等があるわけです。そこへ行って遊んでいた。それでも銀25匁前後は必要です。
劇とかを見ますと、櫓のある中座・角座がありますが、普通では行けなかった。そういう新町にしても、やはり高価ですから簡単には遊びに行けないわけです。