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長屋 1

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水帳と絵図

小田
それでは、いよいよ最後の「長屋」のほうへとまいりたいと思います。長屋のお話をする前に、水帳のお話をしなければいけないのですが、水帳と言いますのは、土地台帳なのです。

文化12年「順慶町五丁目水帳」

順慶町水帳

小田 
 ちょっと見えづらいかと思いますけれども、ここに表口と書いています。これは表口6間、裏行8間半。光圓寺という寺が持っております。そして、二つ目です。ここは表口8間半、裏行14間、これに付箋(ふせん)が張ってありますが、和泉屋三郎兵衛が持っております。
 水帳は、土地と屋敷を持っている所有者のことです。土地を売ったとか買った場合に、この名前が購入者に変わるわけですが、これと同じ紙片を6枚作ります。6枚は、一つは水帳、もう一つは絵図にも同じ紙片を張ります。2枚で一組なのですが、ここは順慶町ですから南組の総年寄が一組持ちます。順慶町の町年寄が一組持ちます。地方役所が一組持ちます。勿論、この手続きにもお金が要りまして、銀3匁なり銀4匁を納めて変えてもらうことになります。

文化12年「順慶町五丁目絵図」

順慶町絵図

小田 
 その関係はどういうふうになるかと言いますと、絵図を出してもらえますか。最初の表口6間と言ったのは、ここですね。これがちょっと見にくいけれども、光圓寺は表口6間になっているのです。裏行が8間半なのです。2番目の和泉屋三郎兵衛、これは間口が8間半、裏行が14間。裏行14間ということは、光圓寺の表口が6間ですから、合わせると裏行が20間になります。三つ目が、あそこにはなかったけれども、博物館の水帳で調べてまいりまして、表口5間半、裏行が20間、所有者が光圓寺となっていて、順番に絵図と水帳が対比できるようになっています。
 水帳は、本みたいになっているのですが、後ろの袋に絵図が折り畳んで入れるようになっています。これは順慶町に限らず、他の町でも同じ状態になっています。この水帳は偶然文化12年ですが、古い時代の水帳を見ますと、表口も広かったわけです。人口が増え、商売が盛んになりますと、どんどん細分化されてきます。これが明治時代になりますと、もっとひどくなって、この付箋が10枚ぐらい重なって、縦横に入るような水帳もあります。